機関誌「非破壊検査」 バックナンバー 2016年4月度

巻頭言

「歯科バイオメカニクス」 坂本 信

  バイオメカニクス(生体力学)とは,医歯学系の諸分野と力学系の諸分野を統合した学際的研究分 野と定義できる。簡潔にいえば,力,運動および材料力学に関する物理・工学的手法を生体に応用す る学問のことである。例えば,整形外科に関するバイオメカニクスの研究は,医師と工学者との協同 により古くから多種多様の多くの研究が行われているが,それに比べて歯科バイオメカニクスの研究 は少なく,歯科医師と工学者との連携も多くはないと思われる。この理由は幾つか考えられるが,世 界的に歯学に関した大学や研究機関が比較的少ないことや歯学の材料力学的研究テーマが歯科修復材 料に限定されていたこと等が推測される。米国のUCLA 歯学部に勤務していたAngelo A. Caputo 教授は, 数少ない歯科臨床バイオメカニクスを専門としていた工学系研究者(初めの専門は土木工学・応用力学) であった。彼は歯学部に勤務していたことから,歯科バイオメカニクスの臨床への重要性を認識して いた。Caputo 教授らの著書である“Biomechanics in Clinical Dentistry”の序文で,彼は以下のように 述べている。「歯科的な形態回復を行う際には,応力の作用する顎,顔面,口腔系各部の相互作用に関 する知識が必須である。従って,歯学分野におけるバイオメカニクスは以下の研究を含む。1:正常 あるいは病的状態にある顎,顔面,口腔系に作用する応力測定。2:口腔組織や修復物に対する応力 の影響。3:口腔組織に作用する応力の手術や装着物による改善。これらには必然的に力学や工学分 野の手法を応用することになる。」この記述からも歯学においては,日本非破壊検査協会が扱う応力・ ひずみという専門知識が重要であることが理解できる。本特集号では,歯科バイオメカニクスの研究 を行っている7 名の専門家に解説していただいた。
 遠藤英昭先生による「歯根破折のバイオメカニクス」では,Caputo 教授らが提案した疑似三次元光 弾性法を用いた結果を交えながら,未だ原因が明らかとなっていない歯根破折という重篤な病態に対 するバイオメカニクス的研究について,また,宗形芳英先生による「顎のバイオメカニクス」では, 咀嚼時の頭部運動について解説していただいた。千葉美麗先生には,最近のバイオメカニクス研究で 注目を浴びている「歯周組織の細胞バイオメカニクス」について,林孝文先生には,超音波によって 生体組織の弾性率測定を行うことができる「歯科におけるエラストグラフィの臨床応用」について, それぞれ解説していただいた。最後に,坂本・小林公一先生・坂井幸子先生・遠藤英昭先生による「三 次元歯軸の自動決定法」では,歯科バイオメカニクスにおいての基本である歯の形態や歯の三次元的 位置を評価する上で重要な三次元歯軸の自動決定法に関する内容について解説していただいた。
 「非破壊検査」では,なじみがない内容であるが,本特集号を通して歯科バイオメカニクスに関して ご理解をいただき,興味を持っていただければ幸いである。

 

 

解説 「今技術教育の現場では」

歯根破折のバイオメカニクス
   遠藤 英昭 東北大学病院

Biomechanics of Dental Root Fracture
Tohoku University Hospital Hideaki ENDO

キーワード 歯根破折,破壊力学,擬似三次元光弾性法,応力解析,モアレ法

1. 末期の眼で
 日本の社会全体が高齢化していると報道などで耳にする機会が日増しに多くなってきた。歯科治療の分野でも,高齢者 に対する治療に注目が集まり,ここ二十年の間に対策が練られてきた。「歯科」「高齢者」と言えば,入れ歯(義歯)を想 像される方がほとんどであろう。しかし,それ以外の治療分野にも影響が出て来ている。
 人生五十年の時代,まだ機能的・構造的に十分使い尽くしていない歯のまま亡くなる,あるいは歯周病で歯を抜いてし まうことが多かった。一般の方々はタイトルにあるような「歯根破折」という病名はあまり聞いたことがないと思う。二十 年程前は,「歯が破折する」,「割れてしまう」という現象は,交通事故やスポーツ外傷の分野で起こる狭い領域の出来事で あった。歯は人間の身体で最も硬い組織である「エナメル質」(旧モース硬度6,水晶と同等)と骨と同じ程度に硬い「象牙質」 で主に構成されている。その他にも「セメント質」と呼ばれる歯根部の象牙質表面に付着し,歯と軟組織をつなぐ比較的 軟らかい硬組織がある。骨折を想像していただくとお分かりのように,このような硬い歯が割れると言うのは,非常に大 きな衝撃が加わった場合に起こると考えられているが,実は日常生活を送っていても静かに破壊が進んでいる。物を噛む 「咀嚼(そしゃく)」と言われる顎運動は,食事ごとに200回を超えて上下の歯が接触している。人生八十年の現在,十二 歳前後で永久歯に交換して噛み合わせが完成して以来,この咀嚼運動は優に1500 万回以上「繰り返し荷重試験」を行って いるのと同等になる。更にこの時の運動は,前後や側方への動きも加わるため,凹凸のある歯に前後左右方向へ斜めに荷 重が加わる。また,大臼歯1 本には最大で人間の体重程度の荷重が加わり,単位面積当たりの負荷は相当大きなものとな る。そのような咀嚼運動の結果,ウ蝕の無い健康な歯でも,磨耗(歯科分野では咬耗と呼ぶ)で機械的に脆弱な部分が生じ, 咀嚼による衝撃で微細なき裂がエナメル質に発生し,この状態が進んでいくと破折を起こす。建築物の柱や壁にき裂が入 るのと同じような現象が起きている。一度作られてしまった歯は,極く表層が食物などで化学的に改造される以外,作り 直されることはない。そのため,構造的な疲労は蓄積していく。
 本解説では,この「歯」の破折のうち,著者らが研究してきた「歯根破折」を取り上げて解説する1)。歯根とは,口腔 内に出ていない歯槽内に隠れた歯の部分を指し,臨床的に診断が難しい部分である。エックス線写真を撮影して分かるの は,硬組織とその間にある軟組織の関係であるが,三次元構造を平面に写し撮るため解像が困難な場合もある。歯根破折 のように破断面が照射方向と90 度縦方向であった場合,検知出来ない。歯はいろいろな部分で破折するが,「歯根」に対し て「歯冠」の破折は修復が可能であり,予後が見通せる場合がある。それに比べて「歯根破折」はほとんどが抜歯となり, 義歯(入れ歯)や固定式補綴のブリッジ(噛み合せに問題がなければ,インプラントも使用できる)の適応となる。それ を防ぐための方策を追究する目的で研究を始めた。

 

 

顎のバイオメカニクス
   宗形 芳英 奥羽大学歯学部

Biomechanics of Human Jaws
Ohu University School of Dentistry Yoshiei MUNAKATA
Professor Emeritus of Osaka Electro-Communication University Kazuyoshi NISHIHARA

キーワード バイオメカニクス,上顎,下顎,咀嚼,食事姿勢

1. はじめに
 咀嚼(噛むこと),嚥下(飲み込むこと),会話などさまざまな口の機能達成に下顎の運動は重要である。顎や口で営ま れる諸機能のほとんどは下顎を動かすことによって行われる現象であり,顎機能の臨床的診査にあたっては,これらの情 報が多く含まれている下顎運動を正確に把握することは特に重要である。顎は上顎と下顎で形成されており,支点のある 上顎に対して下顎が稼動する。上下の歯列間に挟まれた食物を切断・粉砕する際には,大きな力(咀嚼力)が発揮される 必要があり,この咀嚼力は頭蓋骨と下顎骨を繋いでいる咀嚼筋の収縮によって産生され,その際,大きさと重量で圧倒す る頭蓋骨の方が小型で軽量の下顎骨を一方的に引き寄せているように見える(図1)。しかしながら,咀嚼筋が収縮すると 頭蓋骨もわずかながら下顎骨の方に引き寄せられることが想定され,特に通常の咀嚼の際に行われるように片側の上下歯 列間に物が介在する場合では,咀嚼側で優勢な筋収縮力により,下顎骨の側方変位と同時に頭蓋骨を側方へ傾斜・回旋さ せることが予想される。
 本解説では,咀嚼運動に随伴して出現する頭部運動についてその機能的な役割に焦点を当てるとともに,食事姿勢によ る咀嚼運動の変化についての研究成果についても紹介する。

 

歯周組織の細胞バイオメカニクス
    千葉 美麗 東北大学大学院歯学研究科

Molecular and Cellular Biomechanics in Periodontal Tissue
Graduate School of Dentistry, Tohoku University Mirei CHIBA

キーワード 歯根膜細胞,骨芽細胞,破骨細胞,メカニカルストレス,遺伝子導入



1. はじめに
 歯は形成されると比較的安定な組織となるが,歯を取り巻く歯周組織は様々な細胞集団から構成されており,それらの 細胞による生涯にわたる調和のとれた改造現象が歯周組織の恒常性を維持する。歯周組織は咬合力などのメカニカルス トレスに順応して合目的に構築されており1),特に歯槽骨はWolff,s low 2)にも知られるように形態および内部構造の決定 にメカニカルストレスが重要な要因となっており,また,歯根膜は咀嚼に伴う咬合力や矯正力などの機械的刺激に対して 適応反応し,その恒常性を保っている3)?6)。
 歯周組織には外的(Extrinsic)な炎症や力学的刺激に対して反応し,適応や修復をする機能を有する(図1)。健康な歯 と歯周組織を保持し,病的な状況に至らないように保護するためには,これらの反応のメカニズムを理解することが必要 である。  特に,歯および歯列に加わる力学的刺激に関する知見は,その対象が,天然歯であるか人工歯であるかにかかわらず,歯科 医学上,重要である。例えば,歯が抜けると急激に歯槽骨は吸収し,顎堤とよばれる歯槽突起の部分が無くなり,義歯の装着 が困難になる。また,歯科矯正治療で歯を移動する時には,歯根膜腔に牽引側と圧迫側が存在し,牽引側には骨形成が起こり, 圧迫側では骨吸収が引き起こされる(図2)が,歯根膜が外傷等により炎症を起こし,一部でも歯と歯槽骨が骨性癒着すると, 矯正治療による歯の移動が起こらない。さらに,人工歯根による歯科インプラントでは,インプラント体と歯槽骨とが直接接 合(オステオインテグレーション)するため,歯根膜による緩衝作用や適応作用が働かない。そのため,周囲の組織との力学 的バランスに配慮した治療がなされなかった場合には顎骨の炎症性吸収等の重篤な副作用が生じる。

 

歯科におけるエラストグラフィの臨床応用
    林 孝文 新潟大学大学院医歯学総合研究科

Application of Elastography in Dentistry
Niigata University Graduate School of Medical and Dental Sciences Takafumi HAYASHI

キーワード 画像診断,超音波診断,エラストグラフィ,口腔がん,頸部リンパ節転移



1. はじめに
 超音波エラストグラフィ(以下,エラストグラフィ)は,がんや肝硬変など生体組織が硬化する疾患における超音波診 断の精度向上を目的として1990 年ごろから研究が進められ,本邦において2003 年に最初の臨床装置が開発・実用化され た。それ以来,基本となるグレースケール画像であるB モード法,血流を画像化するドプラ法に次ぐ第三の手法として一 般化し,現在では大部分の医用画像診断機器メーカがこの機能を搭載した装置を提供するようになった。エラストグラフィ はより広い概念として超音波組織弾性イメージングと表現される。その名のとおり,硬さを示す組織固有の物理量である 弾性係数(ヤング率)を画像化する手法であり,現在臨床で実用化している手法は,歪み(ひずみ)を用いた手法である Strain elastography とせん断弾性波を用いた手法であるShearwave elastography に大別される1)。
 エラストグラフィは軟組織の硬さを可視化する手法であり,科領域の主体である歯や顎骨などの硬組織については現在 の装置では適応にはならない。歯科において日常臨床に応用されうる領域としては,口腔・頸部の軟組織や咀嚼筋,唾液 腺などが挙げられる。当施設では2008 年頃よりエラストグラフィの臨床研究を開始し2),2012 年には現在使用している装 置を導入した。現在の主たる対象疾患は口腔がんとそのリンパ節転移である。また,顎関節症患者における咀嚼筋の浮腫 の程度を評価し,治療方針決定や効果判定に役立てようとする研究もなされている3)。本稿では,歯科診療におけるエラ ストグラフィの臨床応用について,特にリンパ節転移と原発巣の評価について,具体例を示しつつ述べたい。

 

三次元歯軸の自動決定法
  坂本 信、小林 公一 新潟大学医学部
  坂井 幸子、遠藤 英昭 新潟大学大学院医歯学総合研究科/東北大学病院

Automatic Method of Three-Dimensional Tooth Axis
Niigata University School of Medicine Makoto SAKAMOTO and Koichi KOBAYASHI
Graduate School of Medical and Dental Sciences, Niigata University Sachiko HAYASHI-SAKAI
Tohoku University Hospital Hideaki ENDO

キーワード バイオメカニクス,歯,三次元歯軸,主成分分析,マイクロ CT,コーンビーム CT



1. はじめに
 バイオメカニクス(Biomechanics)とは,力学(Mechanics)を生物学(Biology)に応用させた学問である。力学とは一般に, 力,運動および材料力学に関する科学を力学と定義できることから,臨床においてバイオメカニクス的検討が最も必要な分野 は,筋骨格系や歯科系である。近年,歯科臨床において歯科バイオメカニクスの重要性が認識されてきた。本解説では,歯科 バイオメカニクスにおいて基本である歯の形態や歯の三次元的位置を評価する上で重要な三次元歯軸の自動決定法に関する著 者らの研究グループによる取り組み等について紹介する。

     
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